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「あんな風に生きたいな」という先生。

「あんな風に生きたいな」という先生。

八重田淳

日々多くの大学生と本気で向き合っている筑波大学准教授の八重田先生にインタビューをしました。先生自身が決断をする時に何を信じ、不安とどのように向き合っているかを教えていただきました。壮絶な体験から生まれた哲学は「根拠はなくても自分の勘を信じてもいい。」

高校時代

Q. 高校生の頃はどんな高校生でしたか?

水泳が出来る高校を選びました。

もういかにも「インターハイにいく」とか、「オリンピックに行く」とか、そういう人を育てるみたいなところです。

競泳部では、朝から晩までずっと、泳いでいました。朝5時には自転車で駅に向かい、始発の電車に乗ってプールに行って。ご飯食べながら登校して…授業は当然眠いので寝ますよね。お昼に目が覚めて、ご飯食べて、お腹いっぱいになったら眠くなるのでまた寝ます。そうして水泳部の活動のために体力を残しておいたので、全然勉強しなかったですね。部活一本。

Q. 漠然と大学にいこうかなとは思われていたのですか?

大学に行くのは明確な「車椅子を作りたい、そういう人たちのための階段昇降できる電動車椅子を作りたいな」という気持ちから、理系に行くしかないと思って、好きでもない、得意でもない理系コースを選択しました。工学部で、車椅子のことを勉強できるようなところに行こうと思っていました。

車椅子の製造販売をしている家の1人っ子として生まれたので、そこを継ごうっていうのは子ども心にしてありました。車椅子を要するような人たちが「社会でうまく適応できるように」というのがリハビリなので、進路選択の際も、車椅子業界に進む気持ちでいたりもしました。

Q. お父様がそういった仕事をやられているのを見ていたからその仕事に興味をもったのですか?

そうですね。あとは小学校4年くらいのときにあったドラマの影響も受けています。ドラマの中で、車椅子に乗った二十歳くらいの青年が、成人式のお祝いか何かで遊びに行こうとするんです。でも、目的地へ行く地下への階段が降りられないんです。彼は親に「楽しんでおいで」とお金もらったのに、行けず、しかも誰にも助けてもらえず、家に帰ってきます。親に「どうだった?」と聞かれた彼は「うん、楽しかったよ」って口では答えるんですが、顔がくしゃくしゃで涙ぐんでいるんです。それを見て、僕は「くやしい。おかしい!」と思ったんですよ。「親父がつくっている車椅子がもっと階段昇降ができるような車椅子だったら自由にいけるんじゃないのか?」とも考え、「そんな車椅子作りたい」となりました。そうして、高校生のときに、得意でもない理系に進んでいました。

Q.その後実際に工学部に進んだんですか?

はい、日大の工学部に進みました。大学に行ったら親元から離れて一人暮らししたかったんです。理工学部は東京にキャンパスがあるので、そこだと実家暮らしのままになってしまいます。その点、工学部は福島なので、一人暮らしをするために工学部にしました。まだ水泳もやっていたかったので、他の大学はあんまり考えていなかったです。基準は「水泳・工学部・一人暮らし」の3点ですね。僕はあんまりこう、「あっちはどうかな、こっちはどうかな」と悩むタイプじゃないんですよね。そこはもう感覚、勘で「ここだな」となります。

 

大学時代

Q. 大学生活は思っていた通りでしたか?

いや、全然違いますね。まず車椅子を勉強できるような環境がありませんでした。ちゃんとリサーチしていない僕が悪いんですけどね。教授に「僕は車椅子を作りたい、研究したい」ということを話したら、「そんなのうちじゃできない」って言われてしまいました。そこからは最小限の努力で最大限の効果をあげるべく、あんまりそこでは勉強しなくなりました。むしろ英語を勉強してましたね。

Q. 英語はもともと好きだったんですか?

英語は中学の頃からずっと得意でしたね。得意というか好きでした。ビートルズやカーペンターズをかっこいい、ああいう風に歌えるようになりたいなと思って聞いていました。彼らが先生みたいな感じです。発音の真似もしてました。

Q. 水泳はまだ続けられていたのですか?

水泳部に入った…とはいえ、体育学部ではなくて工学部なので、メインの水泳部じゃないんです。弱小水泳部で、先輩も数人しかいなかったので、「ここで名をはせるぞ」と思い。実質2年生くらいから主将をやってる意識はありました。4年で国体に出れましたけど、そこまででした。

Q. 工学部に入ってやりたいことができなくなったときに、どうしようとか、迷うことはありましたか?

考えました。最小限の努力で最大限の効果をあげるべく、授業はちょっとだけ出て出席を取るような履修の取り方をしていました。そのあとは図書館に行って好きな本を読んだりしていました。2年生の終わりくらいのときに、「ここは自分の場所じゃないな」と思ってから、留学を考え始めて、手段として英語を勉強することにシフトしました。

Q. 入学の頃から留学は頭にありましたか?

そうですね、英語がすごく好きだったので、僕が2年生の頃に、「留学でもしてみる?」と今は亡き母が言ってくれたんです。「そんな選択肢もあるのか?!」となりました。「留学なんてできるわけないじゃん」と思ったんですよ(。笑)。 誰もがうらやむようなところを出て、上がってきたわけでもないし、どちらかっていうと亜流だったので、「留学なんか…」と思いました。でも、「チャンスがあったらやってみたら?」という母の一言に「やれるだけやってみようかな」と火がつき本気になりました。そこから英語を最大限勉強して、工学部の科目は最低限の努力でやりくりしてました。

アメリカ留学

Q. 留学したあとのことはあまり考えていなかったのですか?

考えていました。車椅子屋の息子なので、その夢というか希望は自分の中にまだ残ってました。「留学したら日本に帰って会社を継ぎ、車椅子を作りたい」と思ってましたね。留学し大学院に行った最初の1年間まではそう思っていましたが、ちょっとずつ、だんだんと変わっていきました。

Q. どのように変わったのですか?

僕はあまり理系が得意ではないこともあって、車椅子を作ることとかってちょっと違うんだろうなと思い始めました。「使命感」や「憤り感」みたいなものが先行していて気づかなかっただけで、「本当にやりたいこと・できることは実は違うかもしれないな。得意分野じゃないかもな」と気がつき出しました。大学院の1年目で、ようやく(笑)。当然だけど、車椅子は人が使うものですから、僕は車椅子よりも、車椅子に乗っている子どものことが気になりだしていました。結局人のことのほうが僕はどうも好きだと気がついたんです。

障害のある子ども達が学校を卒業したあと…「どうなるのか」が気になりました。僕は親に手紙で相談したんです。そしたら、「与えられた環境でベストを1回尽くしてみろ。そこから何かを決めても、遅くないと思う」という返事をくれたんです。その手紙のおかげで「この状況も運命かなあ」と思えて、自分の軌道修正が始まりました。

Q. どのように変わっていったんですか?

「職業リハビリテーション」という分野に、僕はアメリカで出会いました。留学する前はリハビリテーション工学や支援技術のほうに興味があったんですけど、僕がやりたいのは「仕事」を媒体としたリハビリに変わっていきました。「障害を持った人たちがもう1度本当の自分らしさを見つけるために、仕事を介して幸せになれないか?」という職業リハビリテーションという学問領域です。

僕は日本に帰るのをやめて、その次を目指したくなりました。当初の予定は2年でしたが、もう少しアメリカにいさせてくれと親に頼みました。さすがに親も「なんだよ。帰ってきて車椅子の会社を継ぐんじゃなかったのかよ」ってなってました。でも僕は「やりたいことが見つかった」と伝えました。そのときも、実は「ほんとうにこれで、良いのかな?」と悩んではいました。だって普通に、日本に帰れば仕事は何かあるだろうし、俺は一人っ子なので、親からの期待もあり、そしてお金も底をついてきてました。でも、奨学金をもらえるところを自分で探して、説得しました。

Q. 金銭的には厳しかったんですね。

例えば後期課程にいったときは、結婚して子供もいたのに1.5リットルのペットボトルに1セントとか5セントを入れて貯めていたものが、全財産の時期がありました。それを銀行に持って抱えていったら、それをが18ドル22セントしかなくて、タマゴを買って食いつないだりしていました。。。働きながら勉強する生活を送っていました。

Q. 博士課程の後のプランはあったのですか?

その後の道は、後期の博士課程まで行ったので、大学の研究者の道かなあと進路を考え始めました。アメリカで仕事するしかない、とも思っていました。その頃は、今やっている教員の仕事なんて、これっぽっちも考えていませんでした。そもそも僕は、大学で授業を受けて、絶対に大学の先生にだけはならないって思っていた口ですから(笑)。だから、全然そういった意味では、一貫性ないですね。(笑)。

実はアメリカでの仕事の話も半分以上まとまりかけてました。でも「やっぱり日本に帰ってきてからまたアメリカにいっても遅くないんじゃないの?」と思ったんですよ。アメリカで培ってきたものを通して、日本のもので何が足りなくて、どこが良いのか?というのが見えてくるなと思ったんです。

帰国&就職

Q. 日本に帰った時のお話を、詳しくきかせてください

帰国した時、それこそ「日本をみてやろう。どんぐらいなの日本?」と偉そうな感じでした。「俺はアメリカを8年間みてきたぞ」みたいな鼻が高い雰囲気です。でもすぐへし折られるわけです。

国立のリハビリテーションの研究所には、僕の人生に影響力のある人がいました。その先生に「そんなの何にも通用しないよ。日本では日本、アメリカではアメリカでしょ」とその人に言われたのは効きました。日本に帰国してから、何か日本社会に不適応を起こした時期が、30歳の頃にありましたね。

Q. 社会不適応ですか?

国立の研究所だったんですが、非常勤でした。30になってもまだ非常勤、正規雇用じゃない。結婚もして子供も1人いるのに「なにやってんだ俺?」みたいになってたました(笑)。 日本を、やっぱりきちんと見えていなかったんだと思います。「日本を変えてやる」みたいなおごりがあって、でもそれがへし折られました。そこで、結構うまく適応できなくて、一時は「すべてやめよう、もう人間やめよう」と思うくらいやばかったときもありました。

Q. どうやって抜け出したんですか?

「俺はリハビリテーションを8年間勉強してきたのに、自分をリハできなくてどうするんだ」と奮い立たせました(笑)。 与えられた環境で最大限を尽くすしかないじゃないですか。出たとこ勝負でした。もう積み木みたいなものですね。「どんな形になるのかな」と四角、三角、丸とか積み上げていく。なんとなくのイメージはあっても、途中で崩れるかもしれない。でも崩れたらもう一回やり直せばいい。転んだらもう一回立って、歩き直せばいいだけの話でした。また「もっかいつくるわ」みたいな。リストラクチャリング。もう一回再構築して、もう一回ゼロからでもいい。「これが、リハビリか!」と身をもって本当に学びました。自分が不適応を起こしたら一番いけない領域の研究をしてきてたので、「まず自分をしっかりリハビリしなきゃな」と思いまいた。

Q. 研究所でのつらい時間を乗り越えた瞬間について教えて下さい。

今思うと、そんなにひどい体験じゃなかったのかもしれない。その頃はまだしっかり成長していなかったんでしょうね。そのときはもう結婚していたので、「一人じゃないぞ」という気持ちはありましたね。家族がいて、そういう姿をみている子どももいるとなると責任が伴ってくる。で、やっぱりフラフラできないな、悩んでいられないなと思いました。

僕はうまくやってきた訳では全然ないんです。大変で辛いこともありました。それをなんとか乗り越えられてきたのは、きっと今までいろんなレベルの挫折を味わってきて、何かを乗り越えてきた自分の実績とか、なんとか生きている自分をちっちゃいことでも信じてあげることができたからかもしれない。というか、自分に少し優しくできたからだと思います。そうしていくうちに「世の中そんなに悪いものじゃないな」と思いました。怒られているうちが華だなと思ったんですね。言ってくれるってありがたいことだなって、ある日ふと気がつきました。感謝に変わったんですね。怒りとか憤りとか、そういったものが「ありがとう」に変わったんです。それが乗り越えられるかなって思ったきっかけになりました。自分の中の変化です。人にも感謝したし、耐えた自分にも感謝したし。「それは感謝すべきことじゃん、何甘えてるんだ俺」と思った時の気づきは大事でした。

 

転職 

Q. その後のお仕事は、何をやられたんですか?

2年後、32歳のときに福祉の学部に講師として働きだしました。岡山に新設される公立大学の公募があって、そこへの道が開けたので、福祉をゼロから勉強しました。だから、今だから言える話、勉強しながら教えてました(笑)。大学の講師だけど、他の先生の授業に出てました。学生の一番後ろの席を借りて、学生の学ぶ背中を見ながらノートとって勉強していました。

Q. 岡山で勤めていたあとは、どのような進路を歩まれたのですか?

6年間いて、岡山の次がまだあるんじゃないかなと思いました。そして東京の話があがったので、私立の女子大に2年間勤めました。38か39歳の頃です。でもそこでやっていることはリハビリではないし、条件はよかったけれどここでは満足できないと思ったので、次のステージに上がろうと思って筑波に行きました。

Q. 決断の経緯をもう少し詳しく聞かせてください。

勤めていた女子大では扱っていることが福祉のみだったんです。福祉とリハビリは、似ている様で結構異なります。僕がアメリカでずっとやってきたのはリハビリだったのですが、それを捨てるのは「自分から逃げる事になるだろうな」と思っていました。自分としては「そんな安泰でいいのか?」と自分に問いかけました。そしたら、「ん?」ってクエスチョンマークを頭に浮かべている自分をみつけて、「ずっとここにいるとふやけた先生になりそうだな」と思って、あえて挑戦したくなったんです。

Q. どのような授業を心がけてらっしゃいますか?

10〜20年後でも、その人が大人になった時に、ふっと思い出せるような授業をすることを心がけています。一言でも、なんでも良いんです。その人の顔でも、くだらない話でも良いんですけど、メッセージとして「あの先生はこれを伝えたかったんだな」と気づかせてくれるような授業をしたいです。

あとは、「学ぼうとする人の心にいかに火を灯せるか」…それが使命だと思います。それが灯せないんだったら、ダメだと思いますね。だから自分の「教える」という情熱がなくなったら、さっと身を引きたいと思いますね。

伝えたいこと

Q. 何か決断をする時に心がけていることはありますか?

自分の胸に手を当てて「何をやりたいんだ?」と考えた時に、最初にぱっと思いつくイメージ、それを信じていいんだと思うんですよね。それが間違っているかもしれない、能力が合わないのかもしれない、環境がないかもしれない。でも、少なくとも自分で信じたことは納得するはずなんです。そうすると、そんなに不適応は起こさないなとも思うんですよね。「そうか、私の気持ちは間違っているのかもしれないな」と後で思うかもしれないけれど、選んだその時の自分は間違っていないんじゃないですかと思ってます。

「好きなことをする自分を大切に」っていうことですかね。「本当に好きなこと、夢中になれることはなにか」って、わからないで過ごして終わっちゃうこともあるかもしれない。色々悩むじゃないですか。そういう時期は絶対必要なんですよね。悩むから見えてくる。そういう糧がないと流されちゃうんじゃないかな。

そして、「つまらないな」と思った瞬間、翌日にやめるくらいの覚悟でやっています。自分でやってつまらなかったら辞める。という感じ、その覚悟はできています。だから、つまらなかったらまた新しいことを始めるのみ。

Q. 学生に伝えたいことはどんなことですか?

「自分に満足できているかどうか」というのはいつでも問い続けて欲しいですね。「これでいいのか?!俺・私」って。その問いはずっと続くんじゃないですかね。どんな仕事をしても、どこにいっても、大統領になろうがね、何になろうが、「これでいいのか?!」って。我々社会人はみんな思っているんだと思うんですよ。だから、世の中が成長していくんだとも思います。 

あとは、夢があったら「夢をみれるだけで、なんて幸せなんだ」と思って欲しいですね。夢を見れない人だってたくさんいます。そして、これから自分がどうなるかってのはまだわからない。でも、ずっと自分探しはずっと続くので、みんなそうやって生きてるいっているということを意識すると、逆に結構安心できるかもしれないとも思います。自分だけが違うんじゃなくて、結構みんな同じことで悩んでいるんだよという意識です。

その上で、「自分を信じること」「あんまり満足しないこと」あとは「面白いことをやること」を伝えたいです。走りながら、軌道修正することはこれからたくさん起こるから、それは楽しみにしていて欲しいと思いますね。

Q. これからのビジョンはありますか?

今の仕事がどうこう…という話ではないですが、これからもまだ何か変わるんじゃないかな?という気もしています。「何か面白いことはないかな、何か変わらないかな」という姿勢でいます。54歳になってもですが、何かまだ変わる気がします。僕はそんな良い頭はないので、コツコツ努力することしかできませんしね。

我々はもっとお互いを褒めあっていいんじゃないですかね。もっともっと褒めていいと思います。そうすれば、多分もう少しお互いに優しくなるんじゃないかな。もっと褒めて、認めてあげて、賞状をだしたりして、もっと褒めあうのが当たり前の社会にしたいですね。人間って承認欲が一番高い。だから褒められたら、それをもっと頑張ると思うんです。お互い動機付けあうような世の中だったらいいですね。そんなことをスマートに自然にできて、人を尊重できる学生を育てるのが僕の務めかな。ただ、若い人に丸投げしちゃダメなんです。こうなれよ、とか。あまり押し付けるつもりはなくて、どっちかというとロールモデルになりたいですね。あんな風に生きたいなってちょっとでも感じてくれたら嬉しいだろうなと思います。

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