いきぺでぃあ

「あんな風に生きたいな」という先生。




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「あんな風に生きたいな」という先生。

大学時代

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Q. 大学生活は思っていた通りでしたか?

いや、全然違いますね。まず車椅子を勉強できるような環境がありませんでした。ちゃんとリサーチしていない僕が悪いんですけどね。教授に「僕は車椅子を作りたい、研究したい」ということを話したら、「そんなのうちじゃできない」って言われてしまいました。そこからは最小限の努力で最大限の効果をあげるべく、あんまりそこでは勉強しなくなりました。むしろ英語を勉強してましたね。

Q. 英語はもともと好きだったんですか?

英語は中学の頃からずっと得意でしたね。得意というか好きでした。ビートルズやカーペンターズをかっこいい、ああいう風に歌えるようになりたいなと思って聞いていました。彼らが先生みたいな感じです。発音の真似もしてました。

Q. 水泳はまだ続けられていたのですか?

水泳部に入った…とはいえ、体育学部ではなくて工学部なので、メインの水泳部じゃないんです。弱小水泳部で、先輩も数人しかいなかったので、「ここで名をはせるぞ」と思い。実質2年生くらいから主将をやってる意識はありました。4年で国体に出れましたけど、そこまででした。

Q. 工学部に入ってやりたいことができなくなったときに、どうしようとか、迷うことはありましたか?

考えました。最小限の努力で最大限の効果をあげるべく、授業はちょっとだけ出て出席を取るような履修の取り方をしていました。そのあとは図書館に行って好きな本を読んだりしていました。2年生の終わりくらいのときに、「ここは自分の場所じゃないな」と思ってから、留学を考え始めて、手段として英語を勉強することにシフトしました。

Q. 入学の頃から留学は頭にありましたか?

そうですね、英語がすごく好きだったので、僕が2年生の頃に、「留学でもしてみる?」と今は亡き母が言ってくれたんです。「そんな選択肢もあるのか?!」となりました。「留学なんてできるわけないじゃん」と思ったんですよ(。笑)。 誰もがうらやむようなところを出て、上がってきたわけでもないし、どちらかっていうと亜流だったので、「留学なんか…」と思いました。でも、「チャンスがあったらやってみたら?」という母の一言に「やれるだけやってみようかな」と火がつき本気になりました。そこから英語を最大限勉強して、工学部の科目は最低限の努力でやりくりしてました。

アメリカ留学

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Q. 留学したあとのことはあまり考えていなかったのですか?

考えていました。車椅子屋の息子なので、その夢というか希望は自分の中にまだ残ってました。「留学したら日本に帰って会社を継ぎ、車椅子を作りたい」と思ってましたね。留学し大学院に行った最初の1年間まではそう思っていましたが、ちょっとずつ、だんだんと変わっていきました。

Q. どのように変わったのですか?

僕はあまり理系が得意ではないこともあって、車椅子を作ることとかってちょっと違うんだろうなと思い始めました。「使命感」や「憤り感」みたいなものが先行していて気づかなかっただけで、「本当にやりたいこと・できることは実は違うかもしれないな。得意分野じゃないかもな」と気がつき出しました。大学院の1年目で、ようやく(笑)。当然だけど、車椅子は人が使うものですから、僕は車椅子よりも、車椅子に乗っている子どものことが気になりだしていました。結局人のことのほうが僕はどうも好きだと気がついたんです。

障害のある子ども達が学校を卒業したあと…「どうなるのか」が気になりました。僕は親に手紙で相談したんです。そしたら、「与えられた環境でベストを1回尽くしてみろ。そこから何かを決めても、遅くないと思う」という返事をくれたんです。その手紙のおかげで「この状況も運命かなあ」と思えて、自分の軌道修正が始まりました。

Q. どのように変わっていったんですか?

「職業リハビリテーション」という分野に、僕はアメリカで出会いました。留学する前はリハビリテーション工学や支援技術のほうに興味があったんですけど、僕がやりたいのは「仕事」を媒体としたリハビリに変わっていきました。「障害を持った人たちがもう1度本当の自分らしさを見つけるために、仕事を介して幸せになれないか?」という職業リハビリテーションという学問領域です。

僕は日本に帰るのをやめて、その次を目指したくなりました。当初の予定は2年でしたが、もう少しアメリカにいさせてくれと親に頼みました。さすがに親も「なんだよ。帰ってきて車椅子の会社を継ぐんじゃなかったのかよ」ってなってました。でも僕は「やりたいことが見つかった」と伝えました。そのときも、実は「ほんとうにこれで、良いのかな?」と悩んではいました。だって普通に、日本に帰れば仕事は何かあるだろうし、俺は一人っ子なので、親からの期待もあり、そしてお金も底をついてきてました。でも、奨学金をもらえるところを自分で探して、説得しました。

Q. 金銭的には厳しかったんですね。

例えば後期課程にいったときは、結婚して子供もいたのに1.5リットルのペットボトルに1セントとか5セントを入れて貯めていたものが、全財産の時期がありました。それを銀行に持って抱えていったら、それをが18ドル22セントしかなくて、タマゴを買って食いつないだりしていました。。。働きながら勉強する生活を送っていました。

Q. 博士課程の後のプランはあったのですか?

その後の道は、後期の博士課程まで行ったので、大学の研究者の道かなあと進路を考え始めました。アメリカで仕事するしかない、とも思っていました。その頃は、今やっている教員の仕事なんて、これっぽっちも考えていませんでした。そもそも僕は、大学で授業を受けて、絶対に大学の先生にだけはならないって思っていた口ですから(笑)。だから、全然そういった意味では、一貫性ないですね。(笑)。

実はアメリカでの仕事の話も半分以上まとまりかけてました。でも「やっぱり日本に帰ってきてからまたアメリカにいっても遅くないんじゃないの?」と思ったんですよ。アメリカで培ってきたものを通して、日本のもので何が足りなくて、どこが良いのか?というのが見えてくるなと思ったんです。

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